平成17年2月号
2月号 もくじ
********** 今月のトピックス **********
今年も楽しく元気に過ごしましょう!
パワーリハビリ導入される!
元気な踊りを披露してくれました
通所リハビリの新年会
白井様から素敵な川柳を頂きました
あつあつのおしるこを作りました
晃峰会民謡発表会
あかしあの里・わきあいあい便り
ゆめさき便り
今月のリハビリ敢闘賞
投稿作品
********* 名倉院長の健康豆知識 *********
キミちゃんへ
*********** 2月の行事予定 ***********
********* 編集後記【あしあと】 *********
今年も楽しく元気に過ごしましょう!
~療養棟二階新年会より~
1月12日、療養棟2階では
「2005年新年会」を行いました。当日は沢山のお酒とお鍋やご馳走を用意し、院長先生からの新年のあいさつで乾杯をし、
楽しい時間を過ごす事ができました。
いつも以上にたくさんの食事を召し上がられ、お鍋の中身がすぐに終わってしまう席もあったりと、たくさんのお酒を飲まれ、
ほんのりと頬を赤く染められる方もいらっしゃいました。お酒もおいしく、会話も弾んできたところで2005年じゃんけん大会をしました。
勝者の5名の方には賞品として、院長先生とのツーショット写真をプレゼントいたしました。「院長先生と写真を撮れるなんて!」
と少し恥ずかしそうに照れながら撮られる方もいたりと、大変盛り上がりました。
最後にはカラオケをし昔懐かしい名曲を手拍子と共に熱唱して頂き、盛大に新年会を終えました。
今年一年皆様の気持ちを包み込むようなお手伝いをし、お互い喜びや嬉しさを共有し分け合え幸せの量(かさ)
が増すような療養棟作りをしていきたいと気持ちを新たにした新年会でした。
パワーリハビリ導入される!
通所リハビリに、『パワーリハビリテーション』の機材が導入されました。聞きなれない方もおられるかと思いますが、パワーリハビリテーションとは、筋力の低下した高齢者のために開発されましたマシンを使って運動するリハビリ手法のことで、「適切な運動負荷」をかけたマシンでの運動トレーニングによって、「筋力、柔軟性、バランス能力」などの身体的機能の向上に加え、心の活性化についても有効とされています。
今回、二台のマシンが導入され、①下肢の筋力強化により「座る、しゃがむ、立ち上がり、立位保持、歩行」などの日常生活に必要な居移動動作を改善するものと、②正しい姿勢を保持するために必要な背筋群を強化して「猫背(円背)」を改善するものを取り入れました。稼動につきましては、専門的な指導が必要な点もあり人員的な面からも、当初は試験的に行なう事となりますが、広く皆様にご利用して頂くよう考えております。また、他のマシンの導入も今後考えておりますので、積極的にリハビリにご参加頂きたいと思います。
元気な踊りを披露してくれました
~宝幼稚園のお遊戯会より~
1月13日、宝幼稚園の元気な子供達が創春館にやって来ました。今回で2度目の慰問となりますが、年少組から年長組まで歌あり、踊りあり、
演奏ありと盛り沢山の遊戯を披露して下さいました。遊戯の中には扇を持った可愛らしい舞踊や、和太鼓を叩きながらの勇ましい踊りなどあり、
完成度が高いのにも驚きましたが、なにより元気いっぱいな動きに感動しました。見ている利用者の皆さんも元気になったようで、
とてもうれしそうに観覧されていました。
あっという間の一時間でしたが、最後には「いつまでも元気でね。」とのメッセージも貰い、可愛い子供達との楽しい時間を過ごしました。
宝幼稚園の皆さん、本当にありがとうございました。
通所リハビリの新年会
通所リハビリでは、1月の第1週目に新年会週間と題して日替わりで、「あやとり・けんだま・ベーゴマ」といった昔懐かしい遊びや、
上毛カルタ大会・福笑い大会等のお正月の遊びを楽しみました。
また、五日には餅つき大会を催しました。本物の杵や臼を使い一升五合のもち米を2回に分け、「よいしょ、よいしょ」とかけ声を掛け、
男性利用者様や職員を中心に力強くつきました。『何年もついてないよ』とおっしゃられていた利用者様でも、
活き活きとした表情でつかれていた姿が印象的でした。また、女性利用者様が中心になり、あんこやからみ用の大根をすりおろして頂き、
とても美味しいお餅が仕上がり楽しい時間を過ごしました。
白井様から素敵な川柳を頂きました
先日行なわれた通所リハビリ1月の誕生会の中で、白井雪枝様が披露して下さいました川柳を皆様にもご紹介致します。
これらは白井様の旦那様が雪枝様に対して詠まれたものです。
たわむれに 妻を背おいて 腰砕け
(石川啄木「たわむれに母を背おいて そのあまり 軽きに泣きて三歩歩まず」にかけて詠まれたもの)
老いの顔 美しく撮れと 言うは無理
(写真撮影時「綺麗に撮ってね」の言葉に対して詠まれたもの)
良くもった 夫婦続けて 五十年
(金婚式をお迎えになり良い事も悪い事もあり、夫婦生活を振り返りながら詠まれたもの)
死なないで 独り暮らしは 淋しいよ
(現在、当施設をご利用しています雪枝様が、病状が悪かった時の旦那様の率直な気持ちを詠まれたもの)
喜寿米寿 までも生きたい 夫婦して
(いろいろな事を夫婦で乗り越えてきたうえでの現在の旦那様の気持ちを詠まれたもの)
語句だけを見ると憎まれ口を言われた句にとれますが、雪枝様が大変苦労された時、
一緒に苦労し歩まれてきた旦那様の雪枝様を大切に想う心境が良く表れているかと思います。白井様、素敵な川柳をありがとうございました。
あつあつのおしるこを作りました
療養棟3階では1月20日に白玉入りおしるこを作りました。冬ならではのおしるこを味わい体の中から温まれればと思い作り始めました。
まずは白玉団子を作るところから始めました。皆さん最初は「作るのはいいよ、早く食べたいよ」とおっしゃっていましたが、みんなで協力し、
また女性の方は手が覚えているのか団子生地を手にするとあっという間に数多くの団子が作ってしまいました。
白玉をゆで始めると早く茹らないかなといった様子で待ちきれないようでした。
おしるこの中に白玉を入れ一煮たちさせ出来上がりです。皆さんお持ちかねといった様子でお椀にあつあつの出来立てをみんなでよそりました。
あつあつのおしるこは、なかなか皆さんの口には運べませんでしたが、
冷ましながらゆっくりと話をしながら冬ならではの温かいおしるこを頂く事ができ、体の中から又心まで温まる時間となりました。
晃峰会民謡発表会
1月24日、デイルームにて晃峰会による民謡発表会が行われました。鈴木会長ご夫妻が『しげさ節』の民謡大会で全国1位、
2位となられたということで、その実力を存分に披露して下さいました。また、
晃峰会メンバーで当通所リハビリの利用者の狩野光子様も素晴らしい民謡を披露して下さり、他の利用者様にも励みになったと思います。
晃峰会の皆様、年に一度と言わず二度、三度とお待ちしています。
あかしあの里・わきあいあい便り
あかしあの里I
1月21日に廣田馬七様の91歳のお誕生日会を行いました。
入居者、スタッフよりお祝いの言葉、お誕生カード、 プレゼントを贈らせて頂きました。「ありがとうございます。」と笑顔で喜ばれる姿もあれば、本人からの挨拶のときは、 戦争のことを始め91年間は色々あったと話され昔を思い出したのか、涙をうかべる姿も見られました。 私達には91年間をすべて知る事はできませんが、込み上げたその涙に、91年間という重みをとても感じましました。また、 おやつにはケーキを夕食には松花弁当を皆でお祝いさせて頂きました。
スタッフ一同元気に91歳を迎えられたことを、 心よりお祝い申し上げます。
あかしあの里II
あかしあの里IIでは1月14日に外食としてびっくりドンキーへ出掛けました。
ハンバーグのランチとデザートにアイスクリームを食べ皆、大満足した笑顔を見せてくれました。 その後、東照宮へ寄り初詣をしてきました。
一人一人何を願ったか・・・ホームに戻り、入居者に訪ねると「健康でいられるように。」と笑って答えてくれました。
願いが届き全員が健康で一年間過ごせたら幸せだと思います。 この冬の寒さが早く終わり、暖かい春が待ちどおしい今日このごろです。
あかしあの里III
1月26日に群馬県立歴史博物館へ見学に行ってきました。古代人の狩りをしている様子を目にすると「へぇ、こんなことしてたんだね。」
と大きな関心を示されました。また、富岡の製糸工場の様子をご覧になると、お若い頃に従事されていた方々が、お蚕様の話や糸引き、機織など生き生きと話してくださる姿にスタッフ一同感激してしまいました。 帰りにかっぱ寿司で遅い昼食を取りました。
12時を大分まわってしまい、皆さんお腹がすかれたようで、あっという間にお皿が積まれていきました。
お天気にも恵まれ楽しい一日を過ごすことができました。
デイサービスわきあいあい
わきあいあいでは1月5日に利用者の方々と富士見村の珊瑚寺へ一緒に初詣に出掛けました。
当日天気は良かったものの北風が強かった為誰一人車から降りずにお参りをしました。 車から降りなかったのでそのまま宮城村(現在前橋市三夜沢町)の赤城神社までドライブをしました。車中では普段とちがった景色のためか利用者の方々は旅行に行ったかの様に、車窓の景色を楽しまれていました。 今年も利用者の方々と一緒に初詣に出掛けることが出来ましたが、利用日が合わず行く事が出来なかった利用者の方々も今年一年が幸多い年になりますようお祈りしています。
ゆめさき便り
デイサービスセンターゆめさき
デイサービスゆめさきでは、1月19・20日に、
デイサービスゆめさき誕生一周年イベントを行いました。思い返せば、ゆめさきオープンの日に、ご利用された方は1名。
それから一年かけて、徐々にではありますが、利用していただけるようになっています。
今までに行ったレクリエーションやイベント、外出した時の写真をアルバムにまとめ、皆様に見ていただきました。途中から利用された方は、
以前から利用していた方の楽しそうな表情の写真を見て、「これは何の写真だい?」と、うらやましそうに聞いていました。
初めから利用されている方は、仲間内で、思い出話に華を咲かせていました。 また、話が盛り上がった後に、独りじっくりと写真を見つめている方もいました。そのような光景を見ると、私達が提供してきたサービスは、喜んでいただけていたのかなぁ、と、嬉しさが、こみあげてきます。それと同時に、今年は去年以上に喜んでいただけるサービスを提供していきたいと思いました。
グループホームゆめさき
グループホームゆめさきでは、
1月30日に今年最初の家族会合同イベントとして、新年会を行いました。入居者・ご家族・
職員で話をしながら昼食を楽しく食べました。
後半では、職員の余興として、忘年会で優勝した「氣志團」を披露しました。入居者さんの余興としては、一週間かけてのレクリエーションで作成した七種類のカツラをかぶり、「炭坑節」を踊りました。輪になり、家族も参加し楽しいひと時を過ごされていました。
今月のリハビリ敢闘賞
今月のリハビリ敢闘賞
今月のリハビリ敢闘賞は阿部キクミ様です。 いつも優しい笑顔を見せて下さり、リハビリにも一生懸命励まれています。
キクミさんのリハビリに向かう姿勢は、一途でとても清々しく、小柄なお身体ながら強靭な精神と熱意で溢れています。
いつも優しい旦那様のように、私達もキクミさんの支えとなり応援していけたらと思います。これからも宜しくお願いします。
投稿作品
忠治と浅太郎、義理が絡んで勘助殺し
坂本 正之助
忠治も赤城山中に立て篭もってから早六年程の年月が過ぎ、この間、善悪を通して親子救出から仮にもお上から十手を預かる二足の草鞋を嫌悪している山形屋藤蔵を脅かし百両の金を取ったことで関東取締出役・中山誠一郎が官八州の役人を集め忠治逮捕に全力を上げ尚一層厳しくなった。この頃、忠治は山中で六年程も過ごしているのでサカヤキは伸び放題変り果てた姿であった。忠治もこの山の生活もいよいよ最後になるのではと思い、己の身支度を清潔にしておかねばと思いついたのが(現太田市)大光院門前通りにある馴染みの床屋・海老床である。
この床屋はお徳と親戚にあたる店で、忠治はお徳の家に行った時に度々お世話になっていて馴染みだった。
忠治は久しぶりにお徳にも会っていないからサカヤキでも済んだらお徳の処にでも立ち寄って一杯やってくるかと思い、子分も連れずに赤堀あたりを出発したのが正午すぎであった(現在でもこの海老床の跡地があり、松の木に海老床跡地・忠治激闘の跡と書いた表札が下がっています)。
忠治が海老床に着いたのが今の午後四時。御免くださいと海老床の戸を開けると主人の貞吉は驚き
「親分お久しぶりでござんす達者で何よりです」と貞吉の女房と出迎えた。忠治は「有難う。無沙汰して済まねえ」と言葉を返し、
「ついては長い山篭りで変わり果てた姿でござんすよ。とりあえずサカヤキと髪結いをお頼の申す」と貞吉に頼み、鏡の前に腰を下ろした。
貞吉がサカヤキを擦り終わると、表に一人の男が入って来た。「ご主人、お邪魔します」と貞吉の後ろに立ち止まって、「商売繁盛で何よりだ。
何も変ったことはないかね」と言って腰を下ろした。貞吉は「旦那も達者で何よりです」と言うと、男は「主人、近頃俺も鳥目でな余り近くが見えなくなってな」と、貞吉「それはそれはご大事になすって下さい」と言った。この男、所詮岡引なのである。
当事役人といえば、与力・同心・目明・岡引と四段級で取締りを行っていた。この四段級の上に代官がおり、与力とは現在の駐在所の親方で、
同心とは親方の下で現在の刑事に命令する即ち式をとる役で、目明は現在の刑事である。岡引は目明の下働きをする犬という意味で、
要するに世間での悪い噂を色々と目明に言い伝える、今でいうチンコロである。
これによって目明からいくらかの小遣いを貰って生活をしているである。即ち雑用人に過ぎないのである。
さて、岡引が貞吉に邪魔したなと表へ飛び出して行ったので、
貞吉は岡引が鳥目などと言いながら忠治親分の顔を見て目明に報告に行くのだと思い手っ取り早く髪結いに手を掛けたが、
ひとときも経たずに表に数十人の捕手が来て忠治御用だと叫んだ。貞吉は慌てて店の奥から二階へと導き、忠治は屋根裏から屋根に逃れた。
忠治が屋根から見下ろすと日の暮れた海老床の前に御用提灯が四方から揺れ動き、その群れから「忠治御用だ!神妙にしろ!」
と捕手達の叫び声で辺りは騒然となり、その中から梯子を掛け登って来た捕手達を忠治は数人切り落としたり蹴落としたりしたが、
辺りはすっかり日が暮れて屋根の上の忠治は逃げ場を失った。ただただ忠治は屋根の上から下を見下ろすだけであった。丁度その時、
聞き覚えのある「忠治御用だ!神妙にしろ!」という声が聞こえた。浅太郎の叔父・勘助の叫び声だった。この声を聞いた忠治は「おのれ勘助、恩も義理も忘れたか」と勘助に怒鳴ると、勘助は捕手に向かって「裏手に手配りがない、裏手に手配りを」と言った。
これは忠治に裏は誰も手配りがないから逃げろという忠治に対しての助言であった。だが忠治は助言だとは知らず、
咄嗟に裏を見ると一人の捕手もいないので屋根から飛び降りて赤城に向かって逃げ延びたのである。
忠治が赤城の山中に戻ったのが現在の時刻で八時を過ぎた頃で、親分の帰りを待つ子分達は無事で何よりと迎えたが、
忠治にとって浅太郎の叔父・勘助の行動にいきり立ちが治まらず、浅太郎を呼び出し目の前に正座をさせ「浅、てめえの叔父・勘助は犬畜生にも劣る人間だ!俺の恩義も忘れ今日の仕草は何事だ!浅、てめえ今日海老床に行くのを勘助に知らせたんだろう」と言い、
根も葉もないことを言われた浅太郎は悔しさのあまり叔父と二心のない証にと即刻、三室村の勘助の処へ向かった。時に時刻は九時を過ぎていた。
義理が絡んで身を切る運命の浅太郎と勘助のこの先の出来事は次回のさんぽみちでご期待ください。
墓参り 橋本 利三
さて、12月号で墓を作ったとお話をしたが、考えてみると、私の家では長男及びその嫁と孫の女の子二人である。
しかも孫のうち一人は既に嫁に行き、もう一人はどこかへ嫁入りさせなくてはならないと考えているようである。
そうなるとお墓を作っても私たちとせがれたちが死んでしまうと墓参りをしてくれる人は居なくなるのである。
孫に婿さんを貰ってもらえれば事は収まる訳であるが、まさかそれを無理強いする訳には行くまい。
さて、家系という考えは江戸時代に始まったというが、「江戸時代は濃尾平野で創られた」と磯田道文氏は言っている。
その説によれば近代以前の社会では戦争と農業のやり方が、しばしば歴史を作る。戦争形態が政権のかたちを決め、
農業形態が生活のかたちを決める。思うに日本の近代社会は「火縄銃」と「家族農業」が作った。火縄銃の時代、戦争に勝とすれば、
権力のかたちは→密集突撃団にならざるをえない。このような火縄銃段階の戦争で勝つには一つの方法しかない。撃たれても、斬られても、
大将の回りを離れず、ぐんぐん前へ押し出して行く。逃げずに、そういう密集突撃をやってくれる忠誠度の高い軍団を作ることである。事実、
そのような軍団をつくった男たちがいた。十六世紀終わり、濃尾平野にそれは出現した。すなはち、それを発明した→織田信長であり、
それを大規模化し、全国展開させたのが豊臣秀吉であり、徳川家康であった。中世は「私」の乱立した社会・・武田信玄、安芸の毛利などは、
そのよき例である。中世の武士団は近世の武士団には勝てなかったのである。その上、近世の武士は戦力として、
農業と別格になり戦う武士と言う職業を新たに設けた。それが現在になると江戸時代に武士階級であったものが官僚と言う姿に変わるのである。
と、話はもとに戻るが家系と言うものを考えると私たちが墓を作ることは無駄になる訳であるが、取り敢えずもう作ったものだから仕方がない。
とにかく自分たちの最後の安住の所が出来たことに大いに安心しているという訳である。
文芸作品
半世紀 過ぎて懐かし 同窓会
恩師の笑みは 今も変らず
永きこと 住めば都の 我が家なり
いざ解体の日 涙がにじむ
震災に 遭われた人を 思いやる
寒き雪夜に カイロの温もり
栗林 章治
我もなりたや 松葉のように
枯れて落ちても 二人づれ
星野 勇
初雪に 歓声あけし 園児達
二度目の雪には 興味示さず
山本 せい子
病床の 妻の介護に われ疲れ
なすことなく ひと日を過ごす
転ばない 腹をこわさない 風邪引かない
今日も大事に 通所で頑張る
介護から 解放されて 床の中に
しばしまどろむ 真夜は静かに
看護師に 支えられつつ 踏み台を
のぼり降りして 心電図撮る
新しき 作衣身につけ 介護士の
仕事始めの 声優しき
影山 えいじ
坂本さま・橋本さま・栗林さま・星野さま・山本さま・影山さま、ご投稿ありがとうございました。
名倉院長の健康豆知識
キミちゃんへ
キミちゃん、先日、東京四谷にて約37年ぶりに中学・高校の同窓生に会いました。関東在住の同窓会ということでしたが、 遠くは青森や名古屋からも馳せ参じた人がいて、総勢21名の同窓生が集まりました。私の卒業した学校は国宝・姫路城の内堀の中にあり、 男子トイレ(もっとも男子校なので男性トイレしかありませんでしたが)で用を足していると、天守閣が眼前に迫り、 まるで殿様気分になったものです。中高一貫教育のキリスト教系私学で1学年140名位であったため、 全ての生徒が6年の間に少なくとも一度は同じクラスを経験しているという間柄で、 140名のうち一度も言葉を交わしたことがない人などいないのです。 やはり37年という歳月は長く、最初顔を見た時、 その人が誰なのか大部分判別できませんでした。名を名乗り、名刺を交換して昔の風貌を憶い出すという作業を何回か繰り返すうち、 記憶の奥隅に隠れていた思い出が少しずつはっきりとした形をとってくるのでした。昔の記憶が鮮明に思い出されるにつれ何より驚いたことは、 各人の風貌は確かに年齢相応に老けましたが、それぞれの人の所作が全く高校時代と変っていないことでした。少し高圧的な物言いをする人、 静かにみんなの会話を聞いている人、あの時、 私が憧れていたマドンナと駅のホームを二人並んで親しげに歩いていた吉田氏がカラオケに向かって行く時の後ろ姿などは、 頭の毛は淋しくなりましたが、私がせつない失恋の気持ちで眺めていた姿そのものでした。驚いた私は旧友に訊ねました。 「俺って昔と大分雰囲気が違っているだろう?」「阿呆かぁ、お前は全然変ってないよ」が返ってきた言葉でした (こうした仲間うちの関西弁は耳に本当に心地よいものです)。高校卒業以来、さまざまな人生経験を積み重ね、 語り口や所作もそれなりに変化してきたと思っていたのに、それらがほとんど変っていないということは、この37年の歴史は私にとって、 またそれぞれの同窓生にとって何だったんだろうと考えました。多分どんなに沢山の知識を仕入れたり、 さまざまな経験を経ても変化しようのないというのが、私達の個々の人生という道中の存在のあり方かもしれません。同窓生と話をしながら、 社会的地位や知識など全く関係のないお互いの存在そのものを確認し、認め合う交流の素晴らしさに目覚めていました。 そしてキミちゃん、 あなたのことを考えていたのです。あなたが亡くなり、あなたの姿が時々瞼に浮かんできます。ある時は、先日、映画「北の零年」 を見ていた時でした。雪のシーンで雪の中を歩く子供の姿を見ながら、新潟の雪深い所で育ったであろうあなたが、機織り工場で働くため、 当時はまだ直接新潟から群馬へ来ることはかなわず、長野経由で群馬に来たというあなたの言葉を思い出し、 けなげに雪の中を黙々と歩くうら若い乙女だった頃のあなたの姿を追っていました。またある時は、 あなたが人目につかないように日輪寺の川縁の道をひそやかに歩き、そっと皆に美味しい漬物を差し出す、そんな姿が浮かんできました。 92歳だったあなたの顔には勿論これまでの人生が凝縮した沢山の皺が刻まれていましたが、心は雪国の可憐な少女そのものでした。 クリッとしたつぶらな瞳のあなたのとても可愛い顔が顔面神経麻痺で歪んでしまった時、あなたの驚きと失望は、 あなたの年齢にとって重すぎたと想像できます。でもキミちゃん、私達はもうとっくにそうした外観を見る習慣はなく、 私達があなたの健気で可憐な存在そのものをどんなにか愛し、いとおしんでいたかあなたに伝えましたが分かっていただけたでしょうか。 あなたの存在が同窓生の存在と重なり、あなたとの思い出が風化しないうちに書き留めておこうと書きました。 人目につくのが何より恥ずかしいあなたにとって迷惑だったとしたら許して下さいね。
2月の行事予定
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
編集後記
さんぽみち2月号はいかがだったでしょうか。
2月になり寒さが厳しくなってきましたが、暦の上では節分を過ぎ立春です。
節分とは本来立春・立夏・立冬の前日を言うそうですが特に春を前にした立春の前日に豆まきが行われているようです。
皆さんの家では節分にどんな豆まきをしましたか?豆まきの時「福は内」、「鬼は外」と言いますがどちらを先に言うかは地域によって異なるそうです。皆さんの地域ではどちらからですか?
立春を過ぎれば少しずつ春が近づいて暖かくなってきますが、それまでは防寒対策をして体調を崩すことなく冬を乗り切りましょう。
《広報委員 荒井》
事務所からのお知らせ
2月20日(日)から4月24日(日)までの間、試験的に日曜日の事務所当番員を配置します。
なお、ご利用料金の取扱いにつきましては、現行通り月曜から土曜までとさせて頂きます。
ご理解ご協力のほど宜しくお願い致します。